奈良県の歴史散歩(奈良南部)

2017年6月23日から24日で奈良を回りました。

高松塚古墳。

古墳の隣には、高松塚壁画館があり、出土品などが見られます。

高松塚古墳壁画は、昭和47年に発見され、その後国宝に指定されます。

北壁に玄武、西壁に月像と白虎、東壁に日像と青龍が描かれているほか、東西には男女の群像も描かれています。

館内には発見されたときの壁画のコピーと、きれいに復元したコピーがあります。

当時の上層階級の生活が偲ばれます。

高松塚古墳周辺の風景

少し先に歩くと文武天皇陵があります。

こちらは、中尾山古墳です。

墳丘は3段築成の八角形墳で、内部の空間は1m四方しかないため、火葬骨を納めたものと考えられています。さきほど見た文武天皇陵ではなく、中尾山古墳の被葬者が文武天皇ではないかといわれています。

高松塚古墳から10分少々歩いたところです。「鬼の雪隠」

鬼の雪隠の上にある鬼の俎板(まないた)。

墓室の床部分が俎板で、蓋が雪隠に当たるようです。

キトラ古墳。

高松塚古墳同様、石室内に大陸風の壁画か描かれています。

古墳の隣には、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」があり、展示物を見られます。

キトラの由来は、四神の亀虎とも、周囲の字名である「北浦」が転じたものともいわれ、はっきりわからないためカタカナでキトラとしているようです。

建物が四神の館。

於美阿志(おみあし)神社・檜隈(ひのくま)寺跡。

キトラ古墳周辺地区にあります。

この辺りは古代の檜隈郷にあたり、「日本書紀」「古事記」には、応神の代に渡来系氏族東漢(やまとのあや)氏の祖、阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が渡来し、檜隈郷を与えられたことが記されている。

雄略の代には渡来した呉人を定住させたという記事があり、渡来人が多く居住した地でした。

於美阿志神社の境内は、7世紀に建立された東漢氏の氏寺檜隈寺跡です。

於美阿志神社石塔婆。

天武・持統天皇陵

「日本書記」には、687年に築造が始められ、翌年に天武天皇を埋葬、703年に天皇としてはじめて火葬された持統天皇を合葬したとあります。

石舞台古墳。

被葬者不明ですが、蘇我馬子の桃原墓という説が有力。


中は思ったよりも広かった。

岡寺に向かう入り口。

ここからが遠かった。。。

坂道を登り、ようやく三重塔が見えました。

重文の仁王門です。

岡寺は、正式名を龍蓋寺(真言宗)といい、西国三十三か所第七番札所になっています。初午や厄除け祈願の寺として有名です。

1805(文化2)年建立の本堂。

堂内に安置される本尊は、奈良時代の塑像如意輪観音座像(国重文)であり、像高は4.85m、日本最大の塑像。なかなかの存在感です。


岡寺は、8世紀はじめに草壁皇子の岡宮を寺地にして、義淵僧正が開いたとされます。義淵は、法相宗の確立に努めた人物で、弟子には行基、良弁(ろうべん)、道慈、玄昉といった高僧がいます。

少し上ったところの奥の院

三重塔


伝飛鳥板葺宮跡

1959年から継続されている発掘調査で、下層(Ⅰ期)中層(Ⅱ期)上層(Ⅲ期)という3つの時期に渡る宮殿遺構が確認されている。Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630年~)Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板葺宮(643年~)Ⅲ期は斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656年~)と天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672年~)

飛鳥板葺宮は、乙巳の変(いっしのへん)で有名。645年6月12日、蘇我入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足によって暗殺されました。そして、皇極天皇から孝謙天皇への譲位や年号「大化」の制定を皮切りに、改革政治がはじまります。

飛鳥寺跡にある安居院(真言宗)。本尊の銅像釈迦如来坐像(国重文)は、飛鳥大仏と呼ばれています。588年に真神原の衣縫造祖樹葉(きぬいのみやつこのおやこのは)の家を壊して、蘇我馬子が造営を開始し、596年に完成させた法興寺が飛鳥寺です。

606年に鞍作鳥(くらつくりのとり)が製作したという釈迦如来坐像。

アルカイック・スマイルをたたえた北魏様式の仏像です。

安居院の西門を出たところに、蘇我入鹿の首塚があります。

中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠で出会ったのもこの場所とされます。


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