進化する戦国史(渡邊大門)

信長、関ケ原、真田幸村など、超有名どころの話について、まさかこれほど史実と違うとは思っていなかった。

信長といえば、新規性・革新性というのが大方の印象だろう。

流通政策でいえば楽市楽座、無神論者で既成宗教への苛烈な弾圧、鉄砲の三段撃ちにみられる軍事的革新。

しかし、こうしたことが事実であったのか、いまでは異論もあるようだ。

 信長の流通政策については、分国内の関所を撤廃して自由な通行を認め、物資の運搬も自由にしたほか、道路整備も合わせて行い利便性をもたらしたことが評価されている。また、楽市楽座令を発して市場を振興し、自由な商売を認めた。インフラ整備と規制撤廃が流通経済を促進させたことは間違いないようだが、信長のオリジナルではない。すでに六角氏、今川氏、北条氏などが実施しており、広く知られた施策だったと思われる。

 宗教弾圧についていえば、一向宗との戦いや比叡山の焼き討ち、安土宗論などがあげられるが、神仏を恐れぬ革新的な思考によるもの、無神論を象徴する行動といわれる。

 しかし、そのほとんどは、敵対行為に対する報復であり、本願寺、延暦寺、高野山など武力を持つ戦闘集団への対抗措置であった。信長は、特定の宗教の布教を禁じることはなく、寺社に寺社領の寄進や安堵を行っており、特に宗教弾圧を志向していたわけではない。

 1576(天正4)年に、信長が二条新御所を築城した際、石垣には石仏、供養塔、五輪塔、なども用いられたといわれ、安土城築城の際も同様であった。信長が神仏を恐れないことから、石仏を踏みつけにする敷石に使ったとかつてはいわれていたようだが、大和郡山城でも同様の事例がみられ、さほど珍しいことではないようだ。「転用石」と呼ばれるものであり、敷石に石仏を用いることは仏の加護を得るためのものであって、信長の信仰心を表すものともいえる。

 軍事的な革新性について有名なのは、長篠の戦いで用いられたといわれる鉄砲の三段撃ちだろう。1575(天正3)年、織田・徳川連合軍が新戦法の鉄砲三千挺による三段撃ちにより、武田の騎馬軍団を打ち破ったとされている。

 しかし、この事実についても最新の研究では疑問が呈されている。三列の交代による射撃は不可能なこと、実際の戦闘は騎馬ではなく下馬して行われたことが指摘されているという。信長配下の兵卒は兵農分離され、専門的な軍事訓練を受けていた精鋭といわれるが、そうした点についても疑問視されているようで、信長の革新的イメージについて軍事的な側面からも誤りである可能性がある。

 関ケ原合戦についても、一般的に知られているストーリーと史実はだいぶ違うようだ。

関ケ原合戦の前、1599(慶長4)年閏3月、大老の前田利家が没すると、反三成派の加藤清正ら7将が三成の屋敷を襲撃。事前に察知した三成は伏見城の徳川屋敷に入り、危うく難を逃れたといわれている。が、史実ではそうした事実は認められず、伏見の三成自身の屋敷に逃れたということのようである。

 1600(慶長5)年、家康は会津の上杉征伐に向かうが、このとき三成は景勝と連絡を取っており、家康を挟み撃ちにするべく事前に打ち合わせていたといわれる。これも史実では認められず、後に成立した「続武者物語」や「会津陣物語」など、良質ではない資料に基づくものとのことである。

 また、毛利輝元の立ち位置についても、一般的には渋々西軍の総大将におさまってしまったということになっているが、実は所領拡大のために家康打倒に積極的であったようである。

 さらに、最も有名かつドラマチックなできごととして、小早川秀秋の裏切りがあるが、これについても秀秋は開戦時から東軍に属しており、最初から西軍に攻め込んだ事実が明らかにされているようである。

 関ケ原合戦において主要なエピソードが事実でなかったというのは、結構衝撃的であった。どこまで史実として解明されているものかは本書だけではわからないので、関連書を当たってみたくなった。特に、小早川の裏切りについて、事実ではないというのはやや疑問のところもある。小早川の陣取った松尾山にはほぼ城といえるほどの要塞が築かれていたらしいが、西軍本軍が大垣城に陣取り、

東山道を見下ろす形で、松尾山に小早川、南宮山に毛利らが陣取ることで東軍が大阪方面に進出するのを防ぐための布陣であったというのがいままで知っていた話である。

もしはじめから小早川が東軍に属していたとしたら、このような布陣になるのだろうか。合戦までになんの衝突もなかったのだろうか。

いずれにしても、それなりに資料が残っていると思っていた有名な事実とされるものですら、本当かどうか疑わしいことが多いというのは興味深い。

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