ここまでわかった飛鳥・藤原京

 飛鳥時代は、大陸や半島との積極的な交流がなされるなか、律令制に基づく本格的な中央集権国家が形成される時代である。

 古墳時代から飛鳥時代への転換は、質的な転換であり、日本史上最大の変革の一つであった。646(大化2)年の薄葬令では、古墳をつくり多くの副葬品を納めることは愚俗であり、こうした旧俗を一切やめるように命じている。

 新たな国家づくりのために、文明化という社会全体の体質改善を求めている。

 この時代の我が国は、隋、唐、百済、高句麗、新羅など東アジア諸国との交流のなかで、その影響を強く受けた時代であり、豊かな交流が中央集権国家を作り上げ、新時代と新文化を育む大きな原動力となった。

 5世紀後半、朝鮮半島から多くの人が渡ってきて、飛鳥とその周辺に住むようになり、先進的な知識、思想、技術などをもたらすことにより、先進文化の定着に大きな役割を果たしていく。6世紀には、より新しい知識や技術を身に着けた人々が渡来し、日本書紀で「今来漢人(いまきのあやひと)」と記される人々が定着する。

 6、7世紀には、百済王朝との交流が特に濃密であり、仏教や道教など、我が国の社会、文化の形成に重要な役割を果たす新しい知識や、思想、技術が伝えられる。

 7世紀初頭には、遣隋使が派遣され、中央集権国家が確立した隋との直接の交流が始まる。派遣された留学生・留学僧は、数十年に及ぶ長い留学生活を終えて、隋・唐の最先端の政治・社会制度、思想・知識、技術を身に着けて帰国してくる。彼らは、大化改新後の国家の形成に、大きく寄与することになる。

 このように、東アジア社会との交流にはいくつかの画期があり、影響の受け方にも画期があったが、列島社会は大きな影響を受けながら変貌を遂げていく。

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