東京古道探訪(荻窪圭)
東京の古道を探る
東海道といえば、徳川幕府が整備した五街道のひとつを思い浮かべる。江戸と京を結ぶ主要街道である。さらに遡れば、大和朝廷が東海道を整備したのがはじまり。江戸時代の東海道と区別するため。古代東海道と呼ばれるようだ。飛鳥と東国を結ぶためのもので、常陸国まで繋がっていた。
大和朝廷は、全国を60数個の国に分割してそれぞれに国府を置いた。国府に赴任した国司が、都との行き来をするために整備されたのが東海道をはじめとする官道。古代、東京は武蔵国だったが、武蔵国の所属は当初東山道だった。都から岐阜、長野を通り碓氷峠を越えて群馬から栃木を抜け東北に至る。武蔵国へは群馬の途中から南下する東山道武蔵路でつながる。
道幅は約12mと広く側溝付き。ほぼ直線となっており、道が地形に合わせてくねくねと動きだすのは後代のこと。中央集権が弱まり維持管理もされなくなった平安時代になってからである。
JR品川駅の高輪口を出ると第一京浜が走っているが、これが江戸時代の東海道。古代東海道は並行して走る二本榎通りといわれる。江戸の東海道は海沿いであり、海側は石垣で補強されていたようだが、古代東海道は地盤が安定した高台を通っている。
高輪から二本榎通りを北上すると三田台公園がある。ここでは縄文時代の伊皿子(いらこ)貝塚が見つかっているほか、弥生時代の方形周溝墓、古墳時代や平安時代の住居跡もあり、昔からの集落だったのだろう。
さらに北には亀塚公園がある。更科日記に出てくる竹芝寺跡といわれ、古墳ともいわれる。公園奥、大昔に海で削られた崖下には、御田(みた)八幡神社がある。創建は和同2(709)年と伝わるが、江戸時代に今の場所に遷された。
いっきに西に向かって当時の中心地へ。武蔵国の国府は府中に置かれ、府中を中心とした道がいくつもあった。国衙のあった場所は、大國魂神社の東側で、多摩川が削った立川・府中崖線の端に置かれている。府中から北へ向かい国分寺につながる道も発掘されている。
甲州街道沿いの鳥居から南下すると、随神門の手前を横切る道が古道である。東方面が品川道で国府と品川湊を結んでいた。西に向かうのは古甲州道。徳川家康が鷹狩用に造営した御殿があったといわれる。同じ場所は、武蔵国司の館跡でもあったことがわかっている。その館の北側、台地のすぐ下を古甲州道が通っている。
近くに坪宮という小さな神社がある。ここは大國魂神社の摂社だが、かなり古く、祀られているのは武蔵国造である。国府・国司の制度ができる前に国を任されていたのが国造(くにのみやつこ)であり、地元の豪族から選ばれていた。大宮にある氷川神社を奉崇した兄多毛比命(エタモヒノミコト)以来の国造の霊が祀られている。
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